「車輪から零れたのは バイバイ、サンキュー、それから」

 

 
 
 
 
 明日はとうとう、出発する日だ。
 
 今日は最後の夜のはずなのに、こんな時に限って、特に何もすることがなかった。当然かもしれない。必要なものはもう、昨日買ってきた鞄に詰め込んでしまった。忘れ物も無いはずだから、もう明日に備えて寝てもいいはずなのに、でもじっとしていられなくて、今もこうして、布団の上でごろごろしている。
 そうだ、とたいしたアイディアじゃないのに閃いたふりをして、田舎だから電波も良くないから普段はあまり聴かないのに、年下のあの子に教えてもらったラジオ番組を聴こうとラジオの周波数を合わせたりもした。入りの悪いラジオは、これから向かうあの街でもちゃんと、聴こえるのかな。ノイズに乗って聴こえてくる音楽に合わせて、調子外れの口笛を吹いたりもした。
 その拍子に、ちょっとした唄ができた。たったいくつかの短いフレーズ。作詞も作曲もエーリカ・ハルトマン。パクリだなんて言わせない。それなりに良い出来なんじゃないかなとは思った。
 結局、聴いていたラジオ番組もすぐに音を拾い終わってしまって、またすることがなくなった。
何かをしなきゃいけないわけでもないのに、もう一度荷物の確認もしておこうかなと思い立って、鞄の口は開かないけど、頭の中で、詰めた順に確認していく。
 向こうで着る服とか、朝早くは寒いかもしれないから上着もちゃんと鞄に詰めた。でも電車に乗るまでは必要ない気がする。切符はまだだから、明日乗るときに買おう。そのための財布も忘れずに入れたはずだ。無くてもトゥルーデか誰かがなんとかしてくれるかな、と考えちゃったところで、私は、あっ、と小さく声を出してしまった。それも、明日の朝までだっけ。
 君の写真を持っていく、って言うのがちょっと恥ずかしいから、みんなで写った写真を鞄の中に入れた。みんなの顔がいつでも見れるから。君の顔だって、いつでも見れるから。なーんて。
 送別会という名目で、今日のうちにみんなには会ってきた。だから、仲の良かった人たちとは全員、会話してきたはずだ。からかって、ちょっかい出して、それからちょっとだけだけどからかわれて。楽しかった。だから、そこに心残りはない。
 一番会いたい人とは、本当はいつまでもずっと一緒に居たい人とは、最後の最後まで一緒に居るって決めてある。そのための理由だって、本当はいらないかもしれないけど、一応考えてある。これからしばらくケンカも、からかい合いも、ちょっとした会話のやりとりも、できないからね。
だって、だって。
 
 明日の朝、発つんだ。
 
 駅までは、トゥルーデのあの自転車にお世話になろうかな。多分、びっくりするよね、私が起こしに行ったら。だってさだってさ、いつもと逆だもんね。
 トゥルーデの寝ぼけながらも驚いた顔を想像して、えへへと小さく笑う。続いて、誰に話しかけるでもなく、わかりきった明日の予定を頭の中で反芻してみた。明日は、朝一で始発の電車に乗って、丸一日かけて、夢にまで見た街へ行くんだ。お医者様になるために。自分の夢のためだったから、それなりに勉強もした。誰にも言わなかったけど、いや、言わなかったつもりだけど。ミーナにはどうしてか気付かれてしまって、だからトゥルーデにもばれてしまった。応援してくれたのは嬉しかったけど、なんだろう、なんとなく、そこだけはちょっと悔しかったな。驚かせるつもりだったしね。
でも、こんなにステキな事なんて、他にはないと思う。純粋に、私は私の夢を追いかけられるのだから。これ以上に幸せな事はない、絶対に。たぶん、きっと。
だけど、だけど。
 当り前だけど、その街に行けば、最初はひとりぼっち。ここで作った繋がりはあの街へは持っていけなくて、ここにいたみんなは、家族は、もちろんあの人だっていなくて、私はまた、ひとりぼっちから始まる。
 
 ――――元気にやって、いけるかな。
 
 今に始まったことじゃないけど、私の場所はどこなんだろうって、たまに、考えることがある。無いから探そうって思って考えるわけじゃない。居場所はあるのに、どこだろうなって考えている。居場所がたくさんあるのは知ってる、わかってる。一つじゃないとだめだなんてこともないのも、ちゃんと理解している。
 遠くに行ったからって見つかるとは限らないことも、ちゃんと、わかってる。
 実際は、なんとかなるんじゃないかな、とは思ってる。思ってるつもりなのだけど、今のこの気分じゃ、ろくに笑顔も作れないから、誰も見ていないしまぁいっかと、うつむいて、こっそり何度もつぶやいてみるんだ。そうさ、きっと大丈夫。
 
「ひとりぼっちは怖くない……」
 
 さっきラジオを聴いた時に思いついたフレーズを口ずさむ。作曲は自分、作詞も自分。エーリカ・ハルトマンで。
 
「ひとりぼっちは怖くない……」
 
ああそうだ、手紙を書くよ。向こうの街に着いたらすぐにね。そうしよう、それがいい。きっとガラじゃないけど、この街の空を思い出せそうな青い青い便箋でさ。私はトゥルーデみたいにカメラはうまく扱えないから綺麗なものは撮ってこれないけれど、ピンボケでもよかったら、写真も添えるよ。そのほうが、安心するんでしょ。トゥルーデがなんだかんだいって心配性なの、知ってるんだよ、わかってるんだよ。何年の付き合いだと思ってるのさ。
 うん、今決めた。何より先に、手紙を書くよ。
 最初はなんて書こうかな、と頭の中で呟きながら、布団に寝転がってばかりの私は、たくさんたくさん荷物を詰めた鞄に力なく手を乗せた。大きいようで収納の小さい鞄だけど、いっぱいいっぱい、大切なものを詰め込んだ。だからかもしれない。なんとなく、質感が重い気がした。天使のように軽いエーリカちゃんを羽ばたかせるにはちょっと重すぎないかなぁ、重そうだなぁ、明日はやっぱりトゥルーデのあの自転車の籠に乗っけていってもらおう。そう、明日、明日。
 
 明日はとうとう、出発する日だ。
 
 バイバイとか、サンキューとか、そういう言葉が一番簡単なんだろうけど、明日は最後に、君に、何を言おうかな。どうやって言おうかな。
 前に自転車で、一度だけトゥルーデを追い抜いた時、トゥルーデはちょっとだけ、泣きそうな顔をしていたよね。今度は、明日は、どんな顔をするのかな。私は、トゥルーデに、なんて言えばいいのかな。
 バイバイ、さよなら、サンキュー、ありがとう。
 何泣いてるのさ、らしくないじゃん、可愛いね。
 本人の顔を見ていないのだから、どの言葉だってしっくりこなかった。散々、一番大好きなあの人の色々な顔を想像して、もう明日考えようって思った。今日はとりあえずもう寝ないと。明日いつものように寝坊してしまったら洒落にならない。
 あれだけたくさん贈る言葉を、お返しする言葉を考えてみたけど、一番大好きな人に向けたとびきり一番の言葉は、あれこれ考える前に口から勝手に出てくるんだろうなと思う。今までだってなにかとそうだった。経験論は、強い。
だからきっと、だいじょうぶ。
 
 明日はいつも、出発する日だ。
 
 だいじょうぶ、だいじょうぶだってば。怖がってなんか、いないよ。
 
 誰に言うでもなく、自分に言い聞かせるように、私は繰り返しあのフレーズを口ずさんで、そのまま眠りに落ちた。
 
 
 
 
 
 
 ちゃんと予定していた時間に起きてみれば、時間に平等に、みんなに平等に、朝はやってきていた。朝といっても、外はまだ真っ暗だけど。日が昇るには、もう少し時間がかかりそうだった。
 昨日の夜できた唄を持って、私は今日、夢にまで見た街へ行く。自分の夢を追いかけて。こんなにステキな事、他にはないね。誰も、何も、代わりになるものはない。私の、私だけの、夢だから。
だから。
 ひとりぼっちのスタートダッシュでも、だいじょうぶ、怖くない。この街と繋がる、君と繋がるおんなじ空の下で、上手に唄ってみせるから。
 
「ひとりぼっちは怖くない……」
 
 
 
 
 
 
 きぃ、かしゃん、きぃ、かしゃん。
 トゥルーデの後ろに乗っかって、私は街の風を全身いっぱいに浴びていた。道中ずっとずっと見えるのは、大きな背中。そりゃあ横を流れていく見慣れた景色だって、ちゃんとちゃんと、全部、目に焼き付けていったよ。
 そこで私は何度も、バイバイを繰り返していった。こんなに簡単に言えちゃうのなら、最後の言葉にはならないね。バイバイ、バイバイ。
それでも一番脳裏に刻まれていくのは、目の前に居る君の、背中。
おまけに、風に遊ばれている二つの髪の束がふわふわと浮いていて、ちょっとくすぐったくて、浮き足立ってしまった。だからちょっとからかってみたんだけど、いつも通りだったね。
 気分がふわふわと浮いてきたのは、つい鼻歌を歌ってしまうほどだった。トゥルーデには言わなかったけど、フレーズはもちろん、昨日考えた、あの唄で。
 
「あ……」
 
 坂を上りきった時に、トゥルーデが小さく声を零した。横に流れた景色から正面に視線を向けると、目の前が輝いていて、重なっていたトゥルーデの背中が眩しくて。
 
「ん、どしたの?」
「夜明け、だ」
 
 トゥルーデは、少し自転車を動かして、私にも寝ぼけたお日様を見せてくれた。寝起きの朝焼けだったけど、それは、とても綺麗すぎて。
 私もトゥルーデも、言葉を失っていた。横に並んだトゥルーデの顔を見上げる。トゥルーデの顔は、紅く映えていたけれど、もっと別の何かが、そこには映っていた。その目には、その表情には。
 
「……トゥルーデ?」
「ああ……時間だな」
 
 はっと私の呼び掛けに反応したトゥルーデは再度、自転車を漕ぎ出した。きぃ、かしゃん、きぃ、かしゃん。錆びついたチェーンから鳴り響くなさけない音は、私の音だろうか。
 心地よい無機質な音を聴きながら、私は、トゥルーデの背中に頭を預ける。笑おうと思ったんだけど、ちゃんと笑えていたかな。
 でも、最後の最後に、こんな朝焼けが見れてよかった。だから。
 
 この時点でサンキューは、最後の言葉にはならなくなったんだ。
 
 
 
 
 
 
 人のいない駅で、私はちゃんと目的の街へ向かう切符を買った。財布もバッチリ、大きな鞄の中に入っていた。さすが昨日の私。いろんなものが入っていたから、ちょっと、探すのに苦労したけれど。
 
「あてっ」
 
 ホームへの改札を通る時に、鞄の紐が、改札の角に引っかかったようだった。それもかたくなに。ぐいぐい引っ張ってもびくともしない。やっぱり重い鞄だった。こんなに軽いエーリカちゃんの足を止めてしまうとは。
 
「うぅ……トゥルーデぇ」
「……まったく、しょうがないな」
 
 私が声を上げると、トゥルーデは頷いてくれた。視線は、合わなかった。私は切符を、あの街の名前が刻まれた切符を通して歩き出す。ベルが鳴り響いて、すぐに、大きな電車がやってきた。
 駅のベルが、電車の音が、この街に朝を告げる。それから、私とトゥルーデに、時間がきたことを告げる。
 
「それじゃあ……トゥルーデ」
 
 いち、にい、さん。私はあのフレーズを脳裏で奏でながら、前へ踏み出して、改札の方を、いろんなものが詰まったこの街の方を、振り返った。トゥルーデは、顔を上げていなかった。手は振ってくれた。
 昨日の夜にあんなに、最後になんて言おうかって考えていたのに、ほらやっぱり、あれこれ考える前に、言葉は簡単に出てきた。
 バイバイでも、サンキューでもなければ、それは。
 
「また、会おうね」
 
 トゥルーデの姿をしっかりと見つけながら、私は後ろ向きに、最後の一歩を。
 
「……だいすき」
 
 最後の最後の一言は、電車の扉が閉まってから、ぽん、と零れた。
 聴こえたわけじゃないだろうに、トゥルーデがはっとしたように顔を上げる。扉が閉まって、電車がゆっくりと動き出して、トゥルーデの声が、音が聞こえなくなった瞬間に、私は、私は。
 
 何かが流れて、溢れ出した気がして。
 
「……っ」
 
 すぐに自分の座席にあの大きな鞄を放り投げて、電車の窓を全開にした。冷たさの残る朝の春風は少し寒かったけれど、鞄から上着を取りだすのは後回しでよかった。赤くなっているだろう目をごしごしとこするのも、昨日のフレーズを頭の中で口ずさむのも、全部全部、後回しでよかった。だって、だって。
 
……トゥルーデ!」
 
 トゥルーデは、あのおんぼろな自転車を漕いでいた。ペダルのきぃ、かしゃんが、さっきの倍のテンポで繰り返される。電車の音にかき消されそうになっているけれど、確かに聴こえる。ペダルとチェーンのきぃ、かしゃんっていう音と、前後の車輪がくるくると回って、シャーッと鳴る音。
 石か何かにつまずいたのか、トゥルーデが跨った自転車はぐらりと大きく傾いて、すぐに立て直したから転ばなくて済んだけど、だんだんと、ゆっくりと、減速していって。
 自転車と電車の距離は、少しずつ、開いていって。
 
「はぁっ……はあ、エーリカ!」
 
 トゥルーデは、転げ落ちるように自転車から降りて、今度はそのまま走り出した。喋るのだって、つらくなるだろうに、それでも、走って、走って。
 昨日からずっとずっと、寂しくなんかないって言おうとして、思おうとして、唄まで作ったのに。ああ、君も同じだったんだ。
 
 だって、さっきから、ほら今も、その目から溢れているものは。あの朝焼けよりも透き通るそれは。
 
「約束だ! また……また、会おう!」
 
 君を置いていくことを、この街に残していくことを、君は、君は、許してくれたのかな。
 今までみたいに、最後の最後も、なんだか不器用に、でもシンプルに、はっきりと答えちゃうのが、ずっとずっと変わらないなあ、って。
 いつまでも、変わらないでいてくれるんだなあ、って。
 
 私の場所はココなんだ。
 遠くに行ったって、私の場所は、変わんない。
 
「うん、約束……」
 
 これから先、ひとりきりでも、たぶん、大丈夫。みんなが、君が、ココで見守っているって言ってくれたから。
 
 朝日に照らされたトゥルーデが見えなくなったところで、するすると座席に座る。春風の吹き荒れる窓を開けっ放しにしたまま、私は大きな鞄を抱えた。一昨日買ったばかりの新品独特の匂いが、鼻を、瞳を、胸をせっつく。
 この鞄の中には、たくさんたくさん、色んなものが詰まってる。それはきっと重くて、でも私が飛べるくらいには軽くて。
 そして、なによりも、とっても、あたたかい。
 
 私の場所はここなんだ。
 いくつになったって、私の場所は、変わんない。
 
「絶対、いつかまた……!」
 
 私とおんなじように、君も泣いていた。今まで見たことないくらい、大きな粒を零しながら。
 綺麗だった。この街の朝焼けに負けないくらい、クリアで、君みたいにまっすぐで。
 
 これから先、ひとりきりでも、大丈夫かって?
 
 ――――うん、大丈夫! みんなは、ここで見守っていて。私は、自分の夢を追い続けられるから。ちゃんと、ここに戻ってこれるから。
 
「ひとりぼっちは怖くない……!」
 
 太陽に照らされていく故郷を眺めながら、私はあのフレーズを口ずさんだ。今度は、今度こそは、上向きの音階で。
 
 
 
 
 
 
 
 
 エーリカを送り出して朝を迎えた街並みは、少しずつ、活動を始め、にぎわい出した。
 見慣れたはずの街並みは、けれど、初めて見る街の景色のようで。
 さっきまでは確かに、知らない世界で、世界中で二人だけみたいだなと思ったはずだった。それも、ちょっと前の話のようで、実際は、随分時間が経っていて。
 ちょっとおかしくなって、世界中に一人だけみたいだな、と私は小さく零した。鼓膜を震わせる、答える声はない。
 いつまでも突っ立っているわけにもいかないから、私は自転車に跨った。きい、かしゃん、きい、かしゃん。あいつを後ろに乗せていた時とは違うペースで、私はペダルをこぐ。確かに自転車の悲鳴って感じだな、などと私は頭の中、ひとりでぼやいてみた。
自転車の悲鳴が、遠のいて見えなくなった電車の音が、朝を迎えてゆっくりと動き出した街が、馴染み深いものの全てが、残された私を運んでゆく。
 
春風を通すちょっと冷たい背中に残るかすかな温もりを、脳裏に刻み込んだあたたかな笑顔を、後ろに乗せながら。