それは、今にも雨粒を撒き散らしそうな積乱雲がむくむくと大きくなっていた日のことだった。どんよりと曇った空が視界の隅にちらつく。これは、お前の頭の中そのものなのか、などと答えの出ない自問自答を、私は頭の中で繰り返した。
 そっと視線を動かす。私はため息混じりに、自身の前をズンズンと歩いていくエーリカに声をかけた。

 


   てんきあめ

 


「おい」
「……なにさ」
「マルセイユがいなくなって寂しい気持ちもわからなくはないが、それにしたって態度に出すぎだ」
「……わかってるよ」

 本人が言うのだから嫌でも自覚しているのだろう。普段、鈍い疎いと言われる私にだって見ていてわかるほどだった。
 マルセイユがJG52から別の部隊へ異動することが決まったのは、エーリカが長期の入院をしている間の出来事だった。エーリカが退院して部隊に戻ってきてからマルセイユがこの部隊を去るまでの間は、訓練校時代から一緒に過ごしてきたと聞く二人にとっては、確かに、あまりにも、短かったと思う。
 それでも、注意という形でエーリカの態度を指摘したのは、おそらく私自身の性格柄ゆえだったのだろう。何かしらの言葉にしたかったに違いなかったんだと思う。そうすることで、私の中にあったもやもやが消えてくれることを期待したのだ。執拗な説教だなとからかわれたこともあるが、気を抜くとつい口に出てしまう。

「今の部隊がいつまでも今のままでいるわけじゃないんだ。わかるだろう」
「…………」
「それでもここは最前線だ。私達は戦い続けなければならない」
「……わかってる。わかってるから。もういいよ、トゥルーデ」

 エーリカはそのまま廊下の曲がり角を曲がって、自分の部屋に戻っていってしまった。このあいだまではふたりの部屋、今となっては、ひとりの部屋。
 振り返りもせず駆け足で走り去っていったアイツが告げた“もういいよ”は、どの意味をこめて告げられたものだったのだろうか。再びそうやって自問自答を繰り返して、私は、自分が鈍く疎いなどと言われたことに納得せざるを得なくなった。
 窓の外を見やる。雲は暗く、重い。もうじき我慢がならなくなって雨になるだろう。お前は、見せてはくれないのだろうな。でも傷付けてしまうのなら、無理に見る必要もないか。
 私はそう思っていたはずだった。それなのにどうして、雨が上がるのを見計らって、この足はアイツの部屋に向かっていったのだ。

 

 


 雲が長々と蓄えた土砂降りの雨が一気に注がれた翌日は、すっかり綺麗に晴れてしまっていた。ひとの気持ちも知らないで、と心の中で一人罵ってみるけど、そういえばあの空が思い通りの絵を描いてくれたことなんて一度だって無かったのだった。ため息が出る。それは自分に向けたため息か、空に向けたため息か。
 忘れていた。今自分がいるこの場所が、あまりにも楽しすぎて。空を見上げてばかりの頃なんて遠くなってしまうくらいに、楽しすぎて。思えば、曇天でも、豪雨でも、とにかく空を見上げて過ごしたのは久々だった気がする。最近は、飛ぶことを覚えてからは、私自身の目線がずっとずっと高くなっていたから。

「らしくないなぁ……」

 自覚はあった。嫌というほどにあった。
 またいつか会えるのだから離れることが寂しいなんてあまり思わないし、私にはこの場所がある。ある、はずで。
 でも、部隊を離れたのは、ハンナだった。私じゃなかった。私と同じ様にこの場所を過ごした、ハンナだった。
 ハンナがいなくなったということは、寂しいことではないはずなのだけれど、それは同時に、この場所が徐々に変わってしまう最初の一歩であったという矛盾を抱えていて。
 そう考えた途端、私は急に何かが怖くなって、思わず布団を引き寄せた。布団を掴む両手に、力が入った。ような気がした。
 窓枠に切り取られた空は、眩しいくらいに明るかった。昨日までの曇り空はどうしたんだよ、と私は呟く。それから、置いていくなよ、と言いかけた。

「……ばか」

 それは何に、誰に向けた言葉だったのかすらわからなくて、答えが出ないのが気持ち悪くて、もういいやまだ日が沈んですらいないけど寝てしまおうと思いきった時に、そういう時に限って、どうしてかな、あの人はやってくるんだ。
 ドアのノックは、決まっていつも、3回。鼓膜を震わせるその音が聴こえて、布団を掴む両手に、力が入った。

「まだ起きているな?」

 いつも通り有無を言わせない口調だったけど、声音はいつもの倍くらい優しかった。それは、無言で返事を返しても、彼女が少しも怒らなかったことからだって明らかだ。
 ああもう、いつも私がトゥルーデの部屋に入る時は、返事を待たずに勝手に入ってくるなって言うのに。私、まだ声に出しての返事はしてないよ。

「飛行許可が下りた。外に行くぞ」
「えっ」
「え、じゃない。こんなに晴れてるんだ。絶好の訓練日和だろう」
「…………」
「とにかく行くぞ」

 いつものトゥルーデにしては、やけに唐突で、根拠に理屈が少ない、実にあやふやな発言だった。有無を言わせず、ぐい、と腕を引っ張られたけれど、それも不思議と痛みは無かった。

 

 


 離陸の準備を始めてすぐに、私は疑問に思った。

「機関銃も持っていくの? 模擬戦やるんじゃないの?」
「誰が模擬戦をやるなんて言った。今から実戦だ」
「……え」

 トゥルーデによると、先程私が自分の部屋に戻ってすぐに、サイレンが鳴ったらしい。私は全く気付かなかった。さっきまで降っていた土砂降りの雨音にかき消されたのかもしれない。私が聞き逃しただけなのかもしれない。多分両方だ。
 そしてサイレンが鳴り響いたということはつまり、

「……出たの?」
「ああ。お出ましだ」

 私達が戦う理由がまた一つ増えたということで、機関銃を抱えて久方ぶりの空へと向かった。機体を徐々に上昇させて、私は高い高い風の軌道に乗る。機関銃のもつ冷たい鉄のぬくもりが、ぐんぐん流れていく景色が、髪をわしゃわしゃにする風が、今まで身近にあったものの全てが、私を急かした。
 遅かったじゃないの。まだ追いつかないの。わかってるよ、頭ではわかってるからもういいってば!

「いた! 前方にネウロイ発見!」

 言うが早いか、トゥルーデが即座にMG42を構えた。敵は偵察用のネウロイだったのか、それほど数は多くなかった。だから、まだ実践に身が入ってなかった私がトゥルーデに加勢する前に、彼女はひとりでさっさと敵機を全て撃墜してしまった。トゥルーデの戦い方に無駄はなかったし、どう考えても私がついてくる必要はなかった。
 私がようやくそう認識したところで、トゥルーデが何を考えてここに私を連れてきたのか理解した。

「ここは、空だ。陸からも結構離れてしまったな。基地があんなに向こうだ。肉眼でも視認しがたいな」

 第一声が想像以上にとても突拍子が無かったものだから、おまけに彼女の顔も至極真面目なのにかなり歪んでいるものだから、噴き出しそうになったけれど、耐える。

「さっきの雲は、やたらと大雨だったな。まだ降ってくるんじゃないかと思ったくらいだ」

 私は黙って、彼女をまっすぐ見つめて、彼女の、トゥルーデの言葉に耳を傾ける。トゥルーデの視線はあちこちに泳いでいたけれど、トゥルーデが零した言葉はどれも、まっすぐだった。

「周りに人はいない。私は他にネウロイが残っていないか見て回ってくるからな。ここで待機していろ」

 他にネウロイなんて、いるわけがない。それもわかっていた。でも私は黙って彼女の言葉を聴き続けた。
 ここは、さっきまで積乱雲が浮いていた、空の上。
 今はすっかり晴れてしまっているけれど、それでも、さっきの雲がおまけで残した天気雨だったと言えば、あっさりと納得されてしまうだろう。言い訳には、充分だった。

「今日はまだ、天気雨が降るかもしれないからな。気をつけておくんだぞ」

 そっぽを向いて頬を染めるトゥルーデに気付かれないように、私は小さく笑った。
 久しぶりに一緒に飛んだのに、相変わらず頭カタイなぁ。いや、用心深いのかな。海の上なんだから、人目につくわけないのに。
 それでも私のことを気にかけてくれるあなたはやっぱり、不器用で、鈍感で、疎いのに、妙なところで敏感で、優しすぎるのだ。

「……ありがと。せっかくだから、ちょっと天気雨降らせてもらうね」

 ちょっと周囲の見回りに行ってくると言った彼女が飛び去ってから、私はポツリと呟いた。
 今は、ひとりだけど、ひとりじゃない。


 私は、故郷から少し離れた海の上に、小さな小さな、天気雨を零した。
 これはきっと、すぐに過ぎ去る、通り雨。